リンク 占い師 庵妃慧 宿命を知る方法 ブログ 通信教育 鑑定


「生き永らえて 〜辿り着いた占いへの道〜

(2000年10月文芸社)
大威 季子著

今まさに何か壁にぶつかっている人、又、子育てで悩みを抱えている女性や、何かしら不満を持っていて、鬱憤のはけ口が分からない人を対象に「人生って、色んな事あるよ!頑張りなさいよ」と、声をかけたく本名にて上梓したのがこのエッセイです。

女性が子供を抱えて社会生活する大変さと、パワーの処し方に時々誤って、あちこちの壁にぶつかりながら、もがき苦しんだ「女の道程」です。読んで頂けましたら、この道を私が選んだ理由が分かって貰えると思います。この道が自分らしく生きる「路」と納得したのです。色んな経験をして今其処に辿り着いたのです。

編集の方が手直すれば、素晴らしく世に生まれ出たかも知れませんが、美辞麗句の表現等に惑わされ、自由に其のままをお伝え出来なくなるのを懸念したので、自分の思い通りを表現させてもらいました。 素人の本です。


少し概略を

「私が、貴方のお嫁さんになってあげる!」そう言って8歳年上の彼と、S38年の冬に家族に祝福され結婚式を挙げた。新婚旅行に出発しのは、四国は高松の琴平だった。

「金毘羅さんの奥の院」への参道の積雪は深く、ヒールがすっぽり埋まり、足を思い切り上げながら参道の石段を登っていた。他に、お参りする人の姿にも出会う事も無く、何処までも続く、二人だけの雪深く入り込んだ足跡を振り返り眺めては、顔を見合わせて微笑み、再び手を握り直しては、拝殿に急いだ。

今、振り返ってみても、確かにその時は最高の幸せな時だった。

それから丸10年の年月が流れ、私は31歳になっていた。
その朝は、秋祭りの始まる日だった。笛や太鼓の鳴り響くのが聞こえてきそうな時間に出張先にいる夫が「身体の調子を悪くしたようです」との一報が会社から入った…。
「少し、長引くかもしれませんよ、こちらにも、これ以上の連絡が入っていません!」
慌てて作った大きな手荷物を下げて、会社に飛び込んだ時、遠くに住む父と弟が、すでに其処に立って居た?
「…?」に思った時、其の様子を察知したのか、さっと父が私の背後に回り、両手で思い切り、私の肩を強く叩いて言い切った。

一夜にして「未亡人、後家」と呼ばれる身になり、人々の視線が急に鋭く胸を刺すように感じられた。思いもつかない、中傷、干渉、卑下する態度、それはまるで十字架に縛られ、晒し者にでもなっている様に…僻みだけが、私の肉体も精神おも乱れさせた。

自分自身が感傷的になり、落ち込む日々が重なった時には、「そうだ!」あの時父が言った「いいか、これからは……。振り返っていたら、生きていけないぞ!」
必ずこの言葉を、呪文のように頭の中一杯に埋め尽くしもだえた。ただ必死にそうする事が自分を慰め、二人の子供の母親として、世間の人の前に再び立ちはだかり、守る事が役目なのだと思っていた

都内のある開業医で完全に見放され、放り出された時に 、 初めて事の重大さを認識した。其の時、すでに私の身体全体の血液の量が、完全に成人女性の生死をさ迷う数値迄、無くなっていたのだった。
過労から引き起こす、多種の病気が身体を蝕んでいた。その状態は、透き通る程色白になり、薄っぺらい身体に布を巻き、それはまるでミイラが着物を着て歩いているそのものだった。 
病院生活が始まった。昼間は臨死体験、夜中になると亡霊が訪れる夏の病室で、只、お医者さんを頼り、あの世と、この世を往来していた。生き抜かなければ、という気持ちも、死の淵にいる切実さも、何も考える事がなかった。

退院後、母が、私の背中を一生懸命撫ぜながら「親より先に死ぬな!……」と、耳元で訴えられた時に「ハッ!」と我に返り、親心の神髄に触れ、今更ながらに親に感謝した。
どの様な事があろうとも、その親孝行だけは、母の為にどんな事をしても果たしたかった。



永い年月、独りで生き抜いた、女の人生の失敗にも拘らずに、有りの儘の生き様を汲み取って頂き、そこから貴方流に判断して、子育てに頑張って!           

でもまず「読者の方自身が、幸せを感じられるように」到達して欲しいと願っています。

 
■特定商取引法に基づく表示 ■個人情報の保護について 「庵 妃慧」、「心のかけ込み寺」及び「宿命百占学」は庵 妃慧の登録商標です。
2004-2005 (c)庵 妃慧/an-kikei.com all rights reserved.